元男のひとり言 立教163年バックナンバー

 

H12.1月号 新年あけましておめでとうございます H12.7月号 今だけよければそれでいいのですか
H12.2月号 身近な人だすけから世界たすけへ H12.8月号 おつとめこそが幸せへの切符
H12.3月号 日々の伏せ込み H12.9月号 喜びを伝えよう
H12.4月号 運命は親神様にお任せして H12.10月号 天理教は心定めから始まった
H12.5月号 ひのきしんの心を社会へ そして子供たちへ H12.11月号 お礼をする信仰
H12.6月号

マ・田・カ、マ・田・カで陽気ぐらしへ

H12.12月号 娘の成長

 

◎機関誌「しまとみ」 立教163年1月号より

新年あけましておめでとうございます

  皆様方には喜び一杯の心で新年をお迎えになられたことと存じます。
 昨年中は、教会の上に並々ならないお力添えを頂き、誠にありがとうございました。
 昨年は、年明け早々に島上の前会長様がお出直しになるという大きな節から始まりました。島富には親教会の会長様という立場だけではなく、古井三次郎先生の孫ということから、個人的にも島富に出入りされていたり、また良一前会長の出直し後は、私をお仕込み下され、また子供をお与え頂いたときには、名前を付けて下さいました。その前会長様のお出直しは本当に悲しい節でした。
 しかし、二月には、安大教会より会長を後継者の義司様に引き継ぐことが発表され、十一月二十四日の創立百十周年記念祭にあわせて九代会長就任奉告祭を執り行う旨が発表され、明るい雰囲気の中で、この記念祭・奉告祭に向けてつとめさせて頂きました。
 また九月から十二月にかけて、一昨年、ご発布された諭達第一号の精神の徹底をはかるため、「ようぼく躍進地方講習会」が開催され、教会も支部会場として二回も開催させて頂き、また島富のよふぼくのみなさんも、他の教会等の受講も会わせて、二十七名の受講がありました。本当にありがとうございました。
 今年は四月に、四代会長・小野常吉先生の三十年祭をつとめさせて頂きます。
 また、二年後に迎えます、創立八十周年に向けて、よふぼくとしてのつとめをしっかりとさせて頂きたいと思います。
 昨年にもまして、世界たすけ・御恩報じに向かって、尚一層のお力添えを賜りますよう、何卒よろしくお願い致します。

島富分教会    辻 井 元 男

 

◎機関誌「しまとみ」 立教163年2月号より

身近な人だすけから 世界たすけへ

 去る一月二十六日、本部の春季大祭が陽気につとめられ、教会からもたくさんおぢばに帰らせて頂きました。
 午後一時五十五分、十二下り目の「十ドこのたび一れつに だいくのにんもそろいきた」と、みかぐらうたが終わり、おつとめが無事に終わったとき、ありがたくて何とも言えない気持ちになりました。
 明治二十年陰暦正月二十六日、これまで教祖が急き込まれていたおつとめを、「命捨てても」という心の者だけでつとめさせて頂くことになられました。当時、おつとめをつとめることは、即、教祖の拘引・投獄になったのでした。しかし、教祖のご身上を台として、お急き込み下され一同の心が定まり、おつとめをつとめることになられたのです。そして、教祖は午後二時に、陽気なおつとめを聞きながら現身をおかくしになったのです。
 その後、飯降伊蔵様を通して、お伺いすると、次のようなお言葉がありました。

(前略)これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年  先の命を縮めて、今からたすけするのやで。(中略)さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だんくに理が渡そう。よう聞いて置け。

 今私たちは、おつとめを大きな声で勇んでつとめても、警察に連れて行かれることはありません。また、おさづけの理は、世界たすけのために、先のお言葉のように、教祖が定命を二十五年縮めて私たち人間に渡して下さったものです。これらは全て教祖が、私たちが世界たすけをしやすいようにして下さっているのだと悟らせて頂いて、真柱様が仰せ下さる「身近な人だすけから世界たすけへ」の心で、いつも、自宅で、教会で、大きな声で勇んだおつとめをつとめさせて頂き、身上の方には、進んでおさづけの理を取り次がせて頂きましょう。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年3月号より

日々の伏せ込み

 明治十六年頃のことです。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉先生は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いたそうです。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来たそうです。高井先生は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いしたそうです。 すると、教祖は、

 それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。

と、仰せ下されたそうです。高井先生は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎをされました。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いたそうです。
 このお話には二つのポイントがあります。
 まず、身上は心の埃からなる。ということと、身上たすけのための伏せ込みの大切さをお教え下さっていると思います。後者は、三里の道のりを取って返して教祖に事の由をお伺いしに帰りました。これが、高井先生の伏せ込みであり真実となったのだと思います。もちろん日々のつとめも大切ですが…。日々の伏せ込みが人を救けるための効能の理だと聞かせて頂きます。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年4月号より

運命は親神様に任せて

 
先月、東京の地下鉄で、死者五人、負傷者三三人という大事故が起こりました。この東京の営団地下鉄は開業以来、こういう事故はなかったそうです。また、現在の日本の鉄道ほど、狂いが少なく、安全な公共機関はないと聞きます。
 マスコミによると、亡くなられた方々は、今、一生懸命人生を歩いておられる方ばかりで、なぜあの人がこんなことに…という声が聞こえます。たまたまその電車に乗られ、その車両のその場所に乗り合わされただけなのです。
 話は変わりますが、先日、私の知り合いのM先生が、居眠り運転で事故を起こし、奥さんと子供さん4人を亡くすという大変痛ましい出来事がありました。新聞の一面等でご存じの方も多いと思います。そのM先生は、事情教会復興のため、家族で函館の教会に移り住みました。はるやすみだからと、家族を乗せて、函館の教会から、おぢばがえりの最中の事故だったのです。
 私はこの事故を耳にし、悲しみと共に、今、ご主人であり、父親である当事者のM先生のことが気になります。今どんな気持ちでおられるのか、何かお手伝いは出来ないのか、などと思っています。
 誰がこのような事態を想像していたでしょうか。「見るもいんねん、聞くもいんねん、世話取りするのはなおのこと。」というお言葉を思い出しました。車社会では、誰でもが一瞬のうちに当事者になります。これは人事ではありません。車の運転することが多い私は、明日は我が身と心を引き締めると共に、しっかりと親神様にお守り頂けるよう、人救けに励ませて頂かないといけないと思いました。
 運命は親神様しかわかりません。人間一人ひとりの魂のいんねんを見定めて、いんねんの通りにご守護下さいます。それが運命ではないでしょうか。また、人間が人を救ける真実の心を遣わせて頂くことによって、親神様が運命を少しずつでも良い方に変えていって下さるとお聞かせ頂きます。
 運命は親神様にお任せし、成ってくることを喜び楽しむように、今はしっかりとにをいがけ・おたすけに励ませて頂きたいと思います。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年5月号より

ひのきしんの心を社会へ そして子供たちへ

 また凶悪な犯罪が、十代の若者によって実行されました。ショッキングな事件です。子供を持つ親として、子育てに対する責任を痛切に感じます。

 教祖のお教え下さるには、十五歳までは親の徳で、十六歳からは自分の徳で、親神様の御守護のもとに、生活をさせて頂くと言うことです。社会でも、中学校を卒業すれば、就職し自分一人で生活もでき、立派な社会人となります。しかし、十六歳になったからと言って親の役割が済んだというわけではありません。

 この教祖のお言葉は、何も十五歳までが親の責任で、それ以降は、親は知らない、ということではなく、十五歳までに、親がしっかり子供への心の教育(徳育)をして、「徳はこうして積むんだよ」と教えてあげる責任があり、十五歳を過ぎれば、しっかりとその徳積みの仕方を見てあげて、間違いがあるならしっかりと、親の責任でただしてあげなければ、親の責任を果たしたことにはならないと思います。ある教会の会長様は、孫がしっかりと道を通ってくれて、初めて親の責任を果たせたことになる。」と仰っていました。

 五月十四日は、《全教一斉ひのきしんデー》。ひのきしんを通して、徳の積み方の一つを実地に行って見せて、教えてあげることができると思います。「ゴミを捨ててはダメだ。」と教えるよりも、「こうしてゴミを拾うと、町がきれいになるね、気持ちいいね。」と教える方が、理にかなっていると思います。また、ゴミを拾うことによって、むやみに道路にゴミを捨てることがいけないことであると言うことがわかるのではないでしょうか。

 《全教一斉ひのきしんデー》は、地域社会への奉仕活動であり、子供たちにとって、最高の徳育の授業の場ではないでしょうか。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年6月号より

マ・田・カ、マ・田・カで陽気ぐらしへ

 私たちの信仰の目的は陽気ぐらしをすることです。陽気ぐらしといっても、ただ楽しいだけでは本当の陽気ぐらしではありません。教祖のお言葉にも、

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めんく楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん 。

                                 (おさしづ・明治30年12月11日)

とあります。
  「みんな勇ましてこそ」とありますが、みんなを勇ますとはどんなことか考えてみる必要があります。国語辞典には「心がふるいたつ。元気をふるって勢い込む。勇気が起こる。」とあります。心がふるいたつとはどんな状況なのでしょうか?
 信仰の先人たちは、「勇むとは、マ・田・カ、マ・田・カと事に当たることである」と仰って、心を奮い立たせにをいがけ・おたすけに奔走されたのだと思います。マ田カと書いて勇。昔の方は、上手に仰いました。マタカマタカと事に当たれば自然と心が勇んでくるのでしょうね。
 
お言葉からすると、自分だけじゃなく周りの人にも、マタカマタカと心が勇んで事に当たってもらえるような言葉遣いや行動を、お互いが常に心して通らせて頂かなければ、真の陽気ぐらしではないと言うことですね。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年7月号より

今だけよければそれで良いのですか

 今年も、恒例の夏の「こどもおぢばがえり」がやって来ます。おぢばでは帰ってくる子供たちの受け入れ準備も着々と進み、行事会場となるおぢば周辺も賑やかさが増してきました。

 話は変わりますが、先日、チラッとテレビを見ると、最近の青少年事情が紹介されていました。街角で十代の若いカップルが平然とキスをする光景が当たり前のように見られるといいます。インタビューをすると、人に迷惑をかけているのでもないし、全然恥ずかしくないとのこと。また性行為に対しても遊び感覚だという。恋人がいても、他の人との性行為だって平気でするという。私も若いと思っていますが、この感覚は信じられません。

 その少年たちの親は果たして、我が子のこの言動をどう思っているのでしょうか。親はそういう子供に育って欲しいと思い、子育てをしてきたのではないと思います。しかし、現実は違っているようで、親の目の届かないところで、子供たちはどんどん変わっていっている。それに気付かない親も多いと思うのです。少年たちは口々に「今だけ良ければ、楽しければそれでいい」と考えているといいます。

 おふでさきに 

   めへ/\にいまさいよくばよき事とをもふ心ハみなちがうでな (おふでさき第3号 33 

とあります。親神様は、今さえ良ければという心、考え方はすべて違うと仰っています。

 毎年夏に、おぢばで「こどもおぢばがえり」「学生生徒修養会(高校の部)」が開催されます。その行事の担当者が言います。この行事に参加する少年たちは生き生きと自分の心を表現する。そして、仲間と一緒に過ごす中で、自分の目的をしっかりと見つめ、それぞれの家に帰っていくと。青少年に限らず、私たち大人もしっかり先の楽しみ、末代までの事を考えていきたいものです。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年8月号より

おつとめこそが幸せへの切符 

私たちの信仰させて頂いている天理教の一番大切な儀式がおつとめであります。どの宗教にも大切な儀式があり、それをつとめることによって、我が身のまわりに降りかかる災いから救けて頂けると信じてつとめる。しかし、天理教のおつとめはただ我が身の救かりだけのためにつとめているのではありません。まず、日々に生を受けていることへの感謝の心を、このおつとめに表しているのです。私たちは、一にも二にもまず生かされていることを自覚しなければなりません。自分で生きていると思い誤っていては親神様に申し訳ありません。どんな病気になっても命あっての物種で、命がある、生かされているんだと、まず喜ばせて頂くところから、真の救かりがあるのだと思います。所詮人間どんなに偉くなっても、病気には勝てません。どんなに我が身のために働いても、死という旬が来れば、否が応でも使わせて頂いているこの身体をお返ししなくてはなりません。
 私たちの教祖(おやさま)は、

   物への執着を去れば自ずと心が明るくなってくる。

と仰いました。ただ仰っただけでなく、ご自身が通って見せて今に伝えて下さっているのです。お金は二の切りやとも仰せられ、物やお金に執着をするという事は、丁度、火事の時に身も焼けるのに必死になって家財道具を運び出しているのと同じだと仰っています。やはり「命あっての物種」であって、日々の健康に感謝すると言うことが本当の信仰だと思います。とにかく親神様に日々のお礼をさせて頂くと言うことが本当に大切だと思います。

   つとめさいちがハんよふになあたなら天のあたゑもちがう事なし  (おふでさき 十号34 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年9月号より

喜びを伝えよう   

このみちハをしいほしいとかハいと
よくとこふまんこれがほこりや
         (おふでさき 第三号 96)

と、おふでさきにもお書き下さっていますが、「欲」と「高慢」がほこりであり、社会や家庭の崩壊、不幸の根本の種ですよと、世の人々に伝えさせて頂くことが、これからは特に必要だと思います。
 親神様は、陽気ぐらしをお望みになっておられます。兄弟である人間同士が、互いに立て合って、たすけ合う陽気ぐらしは、人間の本当の暮らし方です。「欲」と「高慢」は陽気ぐらしには必要ではないと思います。逆に言えば「欲」と「高慢」の埃が多い人は陽気ぐらしが出来にくいのではないでしょうか。日々、神様人様から大きなお陰を頂いて生活させて頂いているという低い心が必要なのですね。そして、徳分以上の欲の心を待たないことが大切だと思います。
 今月はにをいがけ強調月間です。普段にをいがけが苦手で、にをいがけはちょっとと仰る方も、勇気を出して人様に声を掛けてみてはいかがでしょうか。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年10月号より

天理教は心定めから始まった

 毎年のことですが、十月になると、立教の月とお聞かせ頂きます。「稿本天理教教祖傳」を読ませていただくと、天理教の立教は他の宗教とちょっと違っていることに気が付きます。
 普通宗教の始まりというのは教祖や開祖といった人が悟りを開いたり、神の声を聞いたりした時であると思います。しかし、天理教の立教は、親神様が初めて教祖の口を通してお言葉を発せられた天保九年十月二十三日ではなく、その三日後の二十六日なのです。
 三日間の親神様との問答の末、「みきを差し上げます。」という、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てた夫・善兵衞様の固い決心から、お道は始まったと言えるのです。親神様のお働きをもってすれば、家人が何と言おうが、有無を言わさず即座に、みき様を月日のやしろにすることができるはずです。それなのに親神様が三日間も待たれたのはなぜでしょう。
 ここで、「心定めが第一やで。」というお言葉が思い起こされるのです。天理教の第一ページには善兵衞様の心定めがあるのです。その位心を定めると言うことは大切なのだと思います。
 お道の信仰は、心定めを抜きには考えられないのです。心以外は親神様からの借り物と聞かせていただきます。ということは、私たちがご守護といっているもの、健康、家族、地位、名誉、財産等というものすべては、親神様からの借り物なのです。つまり、親神様から何をどれだけお借りできるか。これで、私たちの人生は左右されているのです。
 普通、自分が信用していない人に、大切なものを貸すでしょうか。信用しないと貸せないと思います。親神様に信用して頂く、これがご守護を頂く根本なのです。それでは信用して頂くにはどうすればよいのでしょう。約束をして、それをしっかりと守る、その積み重ねが、信用を築くのではないでしょうか。心定めは親神様との約束です。これをしっかり守らせて頂く中に、心通りのご守護の世界が見えてくるように思います。

◎機関誌「しまとみ」、立教163年11月号より

お礼をする信仰

 十月二十六日の秋季大祭、また翌二十七日の青年会総会で真柱様は、後継者の育成ということを真剣に考えなければならない、またその育成を少年会だけに任せておいてはならない、という主旨のお仕込みを下さいました。
 この信仰は〔願い通りの守護やない、心通りの守護〕と聞かせて頂きます。そして陽気ぐらしが生活の目標であることからすると、毎日の暮らしの中で喜びを探す努力、喜び探しの生活をすることが一番いいと思うのです。そうすると毎日「ありがたい、ありがたい」と感じて、言葉や行動にもなってくる。心が陽気になれば見えてくる世界も陽気な明るい世界になってくると思うのです。
 親神様はこの世界、人間をお創り下さって以来、一秒も休むことなくご守護を下さっています。当然、私たち一人ひとり、生を受けてからも休み無くご守護を下さっているのです。そのことを先ずお礼しなければ、どうして喜びが生まれてくるでしょうか。どんなに秀でた頭脳やセンスを持っていても「命あっての物種」「息一つが蝶よ花よ」なのです。私たち人間は、どんなに裕福な人であっても、風邪一つひいても心が晴れません。右手一本、片足一本不自由であっても当然心が晴れません。
 いろんなお願い、まして人様の身上事情のお願いは大切なのはもちろんですが、お願いよりもまず先ず日々元気にお連れ通り頂いていることの親神様へのお礼を申し上げることが一番大切だと思います。
 信仰の有無に関わらす、現在社会で問題になっている家庭問題、児童問題のすべてに共通するのは、「ありがとう」という感謝の気持ちが不足しているのでないかと思います。
 道の後継者に何を伝えるか。親神様のご守護が先ずあるからこそ生きていけるんだということを、私は第一に伝えていきたいと思います。 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教163年12月号より

娘の成長

 先日、初めて娘の保育所の行事を見に家内と行かせて頂きました。娘の演技は、韓国のソゴという楽器と、木琴の演奏でした。もちろん5歳の子供ですから、ドレミを叩くというのではなく、同じ音を音楽に合わせて叩いているというものでした。私と家内はその大きな音に唖然としましたが、一生懸命演奏する子供たちに大きな拍手を送っていました。
 ふと気が付くと、娘が大きくなったことに気が付きました。この前、台所のテーブルの角に頭をぶつけたら大変と、角にテープで綿を巻いたことを思い出しました。ところが、今はテーブルから余裕で顔が出ています。不思議ですね。私たち夫婦は、娘の身体を引っ張った覚えはありません。毎日、お陰を頂いて三度の食事を頂いて来ただけです。病気もたまにしますが、元気に毎日のように保育所へ登所するだけです。当たり前のように思えることですが、考えてみれば不思議なことです。
 教会のおばあさんは、来年数えで百歳を迎えます。私たちの生活を見渡しても、百年を数える物は皆無に等しいのです。建物も丈夫だといっても百年いや五十年もつ物がどれだけあるか考えると、生まれてから一日も休まずに百年近く働いている身体は、実に不思議です。
 「不思議は神の働き」と聞かせて頂きます。私たち人間は、不思議の中で暮らしているのではないでしょうか。日々親神様のご守護を素直に喜ばせて頂き、陽気ぐらし世界建設のための努力を惜しまずつとめさせて頂きたいと思います。


   

 

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