元男のひとり言 立教163年バックナンバー
| H12.1月号 | 新年あけましておめでとうございます | H12.7月号 | 今だけよければそれでいいのですか |
| H12.2月号 | 身近な人だすけから世界たすけへ | H12.8月号 | おつとめこそが幸せへの切符 |
| H12.3月号 | 日々の伏せ込み | H12.9月号 | 喜びを伝えよう |
| H12.4月号 | 運命は親神様にお任せして | H12.10月号 | 天理教は心定めから始まった |
| H12.5月号 | ひのきしんの心を社会へ そして子供たちへ | H12.11月号 | お礼をする信仰 |
| H12.6月号 |
マ・田・カ、マ・田・カで陽気ぐらしへ |
H12.12月号 | 娘の成長 |
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◎機関誌「しまとみ」 立教163年1月号より 新年あけましておめでとうございます
皆様方には喜び一杯の心で新年をお迎えになられたことと存じます。 島富分教会 辻 井 元 男 |
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身近な人だすけから 世界たすけへ
去る一月二十六日、本部の春季大祭が陽気につとめられ、教会からもたくさんおぢばに帰らせて頂きました。
今私たちは、おつとめを大きな声で勇んでつとめても、警察に連れて行かれることはありません。また、おさづけの理は、世界たすけのために、先のお言葉のように、教祖が定命を二十五年縮めて私たち人間に渡して下さったものです。これらは全て教祖が、私たちが世界たすけをしやすいようにして下さっているのだと悟らせて頂いて、真柱様が仰せ下さる「身近な人だすけから世界たすけへ」の心で、いつも、自宅で、教会で、大きな声で勇んだおつとめをつとめさせて頂き、身上の方には、進んでおさづけの理を取り次がせて頂きましょう。 |
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日々の伏せ込み 明治十六年頃のことです。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉先生は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いたそうです。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来たそうです。高井先生は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いしたそうです。 すると、教祖は、
と、仰せ下されたそうです。高井先生は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎをされました。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いたそうです。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年4月号より
運命は親神様に任せて |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年5月号より
ひのきしんの心を社会へ そして子供たちへ また凶悪な犯罪が、十代の若者によって実行されました。ショッキングな事件です。子供を持つ親として、子育てに対する責任を痛切に感じます。 教祖のお教え下さるには、十五歳までは親の徳で、十六歳からは自分の徳で、親神様の御守護のもとに、生活をさせて頂くと言うことです。社会でも、中学校を卒業すれば、就職し自分一人で生活もでき、立派な社会人となります。しかし、十六歳になったからと言って親の役割が済んだというわけではありません。 この教祖のお言葉は、何も十五歳までが親の責任で、それ以降は、親は知らない、ということではなく、十五歳までに、親がしっかり子供への心の教育(徳育)をして、「徳はこうして積むんだよ」と教えてあげる責任があり、十五歳を過ぎれば、しっかりとその徳積みの仕方を見てあげて、間違いがあるならしっかりと、親の責任でただしてあげなければ、親の責任を果たしたことにはならないと思います。ある教会の会長様は、孫がしっかりと道を通ってくれて、初めて親の責任を果たせたことになる。」と仰っていました。 五月十四日は、《全教一斉ひのきしんデー》。ひのきしんを通して、徳の積み方の一つを実地に行って見せて、教えてあげることができると思います。「ゴミを捨ててはダメだ。」と教えるよりも、「こうしてゴミを拾うと、町がきれいになるね、気持ちいいね。」と教える方が、理にかなっていると思います。また、ゴミを拾うことによって、むやみに道路にゴミを捨てることがいけないことであると言うことがわかるのではないでしょうか。 《全教一斉ひのきしんデー》は、地域社会への奉仕活動であり、子供たちにとって、最高の徳育の授業の場ではないでしょうか。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年6月号より
マ・田・カ、マ・田・カで陽気ぐらしへ 私たちの信仰の目的は陽気ぐらしをすることです。陽気ぐらしといっても、ただ楽しいだけでは本当の陽気ぐらしではありません。教祖のお言葉にも、
とあります。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年7月号より
今だけよければそれで良いのですか 今年も、恒例の夏の「こどもおぢばがえり」がやって来ます。おぢばでは帰ってくる子供たちの受け入れ準備も着々と進み、行事会場となるおぢば周辺も賑やかさが増してきました。 話は変わりますが、先日、チラッとテレビを見ると、最近の青少年事情が紹介されていました。街角で十代の若いカップルが平然とキスをする光景が当たり前のように見られるといいます。インタビューをすると、人に迷惑をかけているのでもないし、全然恥ずかしくないとのこと。また性行為に対しても遊び感覚だという。恋人がいても、他の人との性行為だって平気でするという。私も若いと思っていますが、この感覚は信じられません。 その少年たちの親は果たして、我が子のこの言動をどう思っているのでしょうか。親はそういう子供に育って欲しいと思い、子育てをしてきたのではないと思います。しかし、現実は違っているようで、親の目の届かないところで、子供たちはどんどん変わっていっている。それに気付かない親も多いと思うのです。少年たちは口々に「今だけ良ければ、楽しければそれでいい」と考えているといいます。 おふでさきに めへ/\にいまさいよくばよき事とをもふ心ハみなちがうでな (おふでさき第3号 33) とあります。親神様は、今さえ良ければという心、考え方はすべて違うと仰っています。 毎年夏に、おぢばで「こどもおぢばがえり」「学生生徒修養会(高校の部)」が開催されます。その行事の担当者が言います。この行事に参加する少年たちは生き生きと自分の心を表現する。そして、仲間と一緒に過ごす中で、自分の目的をしっかりと見つめ、それぞれの家に帰っていくと。青少年に限らず、私たち大人もしっかり先の楽しみ、末代までの事を考えていきたいものです。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年8月号より
おつとめこそが幸せへの切符
私たちの信仰させて頂いている天理教の一番大切な儀式がおつとめであります。どの宗教にも大切な儀式があり、それをつとめることによって、我が身のまわりに降りかかる災いから救けて頂けると信じてつとめる。しかし、天理教のおつとめはただ我が身の救かりだけのためにつとめているのではありません。まず、日々に生を受けていることへの感謝の心を、このおつとめに表しているのです。私たちは、一にも二にもまず生かされていることを自覚しなければなりません。自分で生きていると思い誤っていては親神様に申し訳ありません。どんな病気になっても命あっての物種で、命がある、生かされているんだと、まず喜ばせて頂くところから、真の救かりがあるのだと思います。所詮人間どんなに偉くなっても、病気には勝てません。どんなに我が身のために働いても、死という旬が来れば、否が応でも使わせて頂いているこの身体をお返ししなくてはなりません。 物への執着を去れば自ずと心が明るくなってくる。 と仰いました。ただ仰っただけでなく、ご自身が通って見せて今に伝えて下さっているのです。お金は二の切りやとも仰せられ、物やお金に執着をするという事は、丁度、火事の時に身も焼けるのに必死になって家財道具を運び出しているのと同じだと仰っています。やはり「命あっての物種」であって、日々の健康に感謝すると言うことが本当の信仰だと思います。とにかく親神様に日々のお礼をさせて頂くと言うことが本当に大切だと思います。 つとめさいちがハんよふになあたなら天のあたゑもちがう事なし (おふでさき 十号34) |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年9月号より
喜びを伝えよう
と、おふでさきにもお書き下さっていますが、「欲」と「高慢」がほこりであり、社会や家庭の崩壊、不幸の根本の種ですよと、世の人々に伝えさせて頂くことが、これからは特に必要だと思います。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年10月号より
天理教は心定めから始まった 毎年のことですが、十月になると、立教の月とお聞かせ頂きます。「稿本天理教教祖傳」を読ませていただくと、天理教の立教は他の宗教とちょっと違っていることに気が付きます。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年11月号より
お礼をする信仰
十月二十六日の秋季大祭、また翌二十七日の青年会総会で真柱様は、後継者の育成ということを真剣に考えなければならない、またその育成を少年会だけに任せておいてはならない、という主旨のお仕込みを下さいました。 この信仰は〔願い通りの守護やない、心通りの守護〕と聞かせて頂きます。そして陽気ぐらしが生活の目標であることからすると、毎日の暮らしの中で喜びを探す努力、喜び探しの生活をすることが一番いいと思うのです。そうすると毎日「ありがたい、ありがたい」と感じて、言葉や行動にもなってくる。心が陽気になれば見えてくる世界も陽気な明るい世界になってくると思うのです。 親神様はこの世界、人間をお創り下さって以来、一秒も休むことなくご守護を下さっています。当然、私たち一人ひとり、生を受けてからも休み無くご守護を下さっているのです。そのことを先ずお礼しなければ、どうして喜びが生まれてくるでしょうか。どんなに秀でた頭脳やセンスを持っていても「命あっての物種」「息一つが蝶よ花よ」なのです。私たち人間は、どんなに裕福な人であっても、風邪一つひいても心が晴れません。右手一本、片足一本不自由であっても当然心が晴れません。 いろんなお願い、まして人様の身上事情のお願いは大切なのはもちろんですが、お願いよりもまず先ず日々元気にお連れ通り頂いていることの親神様へのお礼を申し上げることが一番大切だと思います。 信仰の有無に関わらす、現在社会で問題になっている家庭問題、児童問題のすべてに共通するのは、「ありがとう」という感謝の気持ちが不足しているのでないかと思います。 道の後継者に何を伝えるか。親神様のご守護が先ずあるからこそ生きていけるんだということを、私は第一に伝えていきたいと思います。 |
| ◎機関誌「しまとみ」、立教163年12月号より 娘の成長 先日、初めて娘の保育所の行事を見に家内と行かせて頂きました。娘の演技は、韓国のソゴという楽器と、木琴の演奏でした。もちろん5歳の子供ですから、ドレミを叩くというのではなく、同じ音を音楽に合わせて叩いているというものでした。私と家内はその大きな音に唖然としましたが、一生懸命演奏する子供たちに大きな拍手を送っていました。 |