元男のひとり言 立教164年バックナンバー


 

H13.1月号

「元」という字

H13.7月号

癖、性分

H13.2月号

ちょっとした心遣い

H13.8月号

子供に伝えること

H13.3月号

人間の力は非力

H13.9月号

 

H13.4月号

桜に思う

H13.10月号

 

H13.5月号

さあ、ひのきしん

H13.11月号

 

H13.6月号

目標に向かって

H13.12月号

 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年1月号より

「元」という字

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 立教百六十四年の今年は、教会創立八十周年を翌年に控えたたいへん大切な年であると思います。私達は、それぞれの持ち場立場を通して、親神様の御教えをひろめさせて頂く努力と、教会祭典日へのおつとめ奉仕、そしてそれに対してのおつとめの練習の実践を目指して共々につとめさせて頂きたいと思います。また、平成四年八月に引き上げた「島富金沢集談所」を金沢の地に復興をさせて頂きたいと思います。

 さて一月一日のことを元日、一月一日の朝を元旦といいます。「一年の計は元旦にあり」と言われ、元旦、元日は一年の目標をたて、一年間の歩み方を決める大切な日だと思います。また、その計画が一年間の活力になるのではないかと思います。
 お道では「元一日」という言葉があります。親神様にたすけて頂いた元一日、信仰を始めた元一日、親から信仰を聞かせて頂いた元一日などがあると思うのですが、この「元一日」に先人・先輩たちや自身が親神様へのご恩返しの道を歩む心を定めたのだと思います。また、この心定めが代々信仰を伝えていく力となっているのだと思います。
 元気という言葉があります。元の気と書きます。辞書によると、「活動の根本となる気力。生命の活力。健康なさま。生き生きとして活力のあふれているさま。勢いのよいさま。」とあります

 
元旦、元日をただ一年の始まりの日にするのではなく、勢いを持って元気につとめさせて頂きたいと思います。

 今年一年、陽気ぐらしを目指して頑張りましょう。

 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年2月号より

ちょっとした心遣い

 先日、おぢばがえりをさせて頂いたときのことです。車を何気なしに駐車して振り返ると、車の下には点字ブロックがあるのです。周りを見ると他に何台か同じように駐車していたので、それに気付かなかったとはいえ、たいへん恥ずかしく思い、あわてて他の場所に車を止めに行きました。 日頃、世界だすけ、人だすけと号令をかけ、届かぬながらも天理教の教会長としてつとめさせて頂いているのですが、点字ブロックに気付かずに駐車するなんて、本当に恥ずかしく、視力障害の方に対して申し訳なく思いました。
 ご存じの通り、点字ブロックは視力障害の方が足や杖を使い、感触を確かめながら歩いたり、方向を変えたりするために大切な施設です。私達健常者が何気なくおいた車のために、交通事故に遭われると言うことも無いとは言えません。ちょっとした心遣いで天と地ほどの差があると思うのです。
 私達は日頃から、兄弟である人間が扶け合って生きていくということを教えて頂いて実践する天理教者です。ちょっとした心遣いで、相手を喜ばせたり悲しませたりしてしまいます。そういった事って、案外身近なところにあると思うのです。できることなら、人様に喜んで頂けるような、ちょっとした心遣いをしていきたいなと思いました。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年3月号より

人間の力は非力

 「人間は親神様の力によって生きています。言い換えたら親神様によって生かされています。」こう言うと必ずそんなことは無いと反論してくる人があります。自分の力で生きているんだと言います。はたして人間は自分の力で生きているのでしょうか?
 確かにおつとめをしていれば生きていけるのかと言われれば、答えはノーです。やっぱりおつとめだけでは生活できません。仕事を通して生活の糧を手に入れて、生きていく努力をしなければいけません。しかし、私たち人間は生活の糧を手に入れて、生きていく努力をするだけで、本当に生きていけるのでしょうか。

「まま食うのも月日やで、もの言うのも月日やで」

のお言葉があるように、親神様のご守護がなければ、ご飯をよばれることも楽しいおしゃべりも出来ないと、お聞かせ頂いています。本当にその通りです。もしご飯をいただいたり、排便が出来なかったり、しゃべれなかったら・・・。
 また、自分の身体であって、自分の思い通りになるのであれば、病気はしないし、死ぬこともなく、百歳でも二百歳でも元気でこの世にいて、自分の子孫とともに楽しく暮らせるはずだと思います。 しかし、それが出来ないのが人間で、親神様から身体を与えていただいて、「心一つが我がの理」と許されている心次第に、いろんな身上・事情をお見せいただくのも人間だと思います。だとすると、やはり人間は親神様によって生かされているのですね。
 私達は、親神様の懐に抱かれて生活をしていることを信じて、親神様の思いに心を沿わせて、親神様の守護をいただき、おつとめを通して、しっかり人様の救かりを願い、日々を大難を小難にしていただいてお連れ通り下さっていることへの感謝を忘れないようにしたいものです。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年4月号より

桜に思う

 四月になり、あちこちの公園や道端にピンクの花が咲き始めました。私たち(特に日本人)は、このピンクの花、桜が大好きなようです。有名な花見のポイントには、会社の新入社員がブルーシートを敷いて花見大会の準備をされます。教会の近くの東淀川駅の線路沿いの桜もきれいに咲いています。
 さて、この桜。自分で四月に咲こうと思っているのでしょうか。桜自身はたぶん四月に咲こうとは思っていないと思うのです。秋に季節はずれの桜が咲くというニュースはよくある話しです。
 つまり、桜は四月という月を知っているのではなく、桜の開花に相応しい季節を知っているのではないでしょうか。言い換えると、親神様のご守護を感じて咲く旬をしっているのではないでしょうか。
 多くの人間は、身上(病気)や事情(悩み事)によって、親神様より成人の旬を教えていただいているのですが、その旬を読みとることが出来ないでいて、病気や悩み事で苦しんでしまうことが多々あると思います。しかし、お道の話を聞かせていただいている私たちお互いは、病気や悩み事を通して親神様から成人の旬を教えていただき、その旬に陽気ぐらしという花を咲かす努力が出来ると思います。
 桜がピンクの花を咲かす旬を感じ取っているように、私たちも陽気ぐらしの花を咲かす旬を逃すことなく、しっかりと身上・事情を受け取らせていただきたいものです。 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年5月号より

さあ、ひのきしん

 今月十三日は年に一度の「全教一斉ひのきしんデー」です。
 天理教は、立教以来、地道に地域へのひのきしん活動を続け、「天理教と言えばひのきしん、ひのきしんと言えば天理教」と言われてきました。また二代真柱様は、お道の信仰者の三信条、「神一条の精神」「ひのきしんの態度」「一手一つの和」を定め、その中において、ひのきしんの重要性を教えてくださっています。ところが、最近教内を見渡すと、ひのきしんが軽んじられているように思うのです。
 ある人に聞いたのですが、詰所において、教祖九十年祭当時は、夜中に便所掃除をする人が絶えなかったそうですが、教祖百年祭頃は、スリッパを揃える人はいたが、夜中に掃除する人は数えるほどで、先の教祖百十年祭では、スリッパが脱ぎ散らかされていても知らんぷり。言われてみれば、詰所の便所にはいると、スリッパが気持ちよく揃っているのに遭遇するのは稀で、やはり脱ぎ散らかされている場面に遭遇する方が増えたような気がします。
 さて、ひのきしんにもいろいろありますが、大切なのはその時の心の持ち方だと聞かせていただきました。「ひのきしんの精神」。歌にもありますが、「♪欲を忘れてひのきしん・・・」。そうです、欲を忘れてひのきしんなんです。つとめただけ見返りがあればそれはひのきしんではなく、仕事であって、ひのきしんの精神は、つとめた後、親神様や依頼主に対して、こちらから「ありがとうございました」と声を出してお礼をする心だと思います。
 さあ、ひのきしん。いつでもどこででも、ひのきしんの精神で実践することによって、私たちの周りには陽気ぐらしの花が咲くのでしょう。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年6月号より

目標に向かって

教祖御在世当時、教祖におたすけいただかれた信者さん方が、「この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」と伺うと決まって教祖は、
   「人を救けるのやで。」
と、仰せられました。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか。」と、お尋ねすると、教祖は、
   「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と仰せられました。
 現在大きな身上もなく日々過ごさせていただいている人々は、身上(病気)になり、ご守護をいただいて救かったことと同じ状態であり、身上で苦しむことを考えたら、病気にならないということが大きな大きな親神様のご守護なのだと思います。このことをたくさんの、まだお道を知らない人たちに伝えることが、私たちよふぼくのつとめではないでしょうか。
 毎年六月は安大教会の別席強調月間です。一人でも多くの方に、お道の信仰を伝えるために、特に力を入れてつとめて欲しいとの、大教会長様の思いが込められています。この六月十日、十七日、十八日、二十五日、二十六日に限り、大教会への別席順序参拝をお許しいただいて、詰所において大教会参拝と同様の手続きをしていただくことが出来ます。 また二十四日は、島上分教会の別席団参日です。年に一度、親教会がお声をかけてくださった目標です。大教会、上級が、私たちに別席者の丹精をしやすいようにと、目標を定め、便宜を図っていただいているこの旬に、それぞれの立場を通して、しっかりつとめさせていただきたいと思います。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年7月号より

癖、性分

 癖、性分というやつは、自分では気づきにくく、人間誰もが「背中のほくろは自分ではわからない」の如く、自分自身の癖、性分は以外と自分では気付かず、人から教えられて、初めて気付くこともたくさんあると思います。
 船場大教会初代・梅谷四郎兵衞先生は 生来、気の短い方であったのですが、入信間もない時に、教祖より

「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」

と、お諭しをいただかれ、生涯その持ち前性分を出さない努力をされ、船場大教会の基礎を作られたと聞きます。
 自分自身の癖、性分を思うと、さあ大変です。私は自分自身の性格と三十五年間付き合ってきました。そんなに簡単に別れることが出来ません。別れを惜しんでいるのではないのですが、なかなか離れてくれないのです。この離れてくれない性格を変えるためには、みなさんならどうされますか。教祖は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや」とおっしゃいますから、癖、性分というやつを取るためには、やさしい心になり、人を救けること行動、すなわちおたすけをすることだと思います。
 自分では気付きにくい癖、性分を、人さんから言われれば、「なにっ」となってしまいがちなところを、「ありがとう」といつも絶えず言える自分になりたいと思いますし、いつも自然にそう言えるよ うになった時には、少しは癖、性分が取れてきたのかなと思います。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年8月号より

子供に伝えること

 
明治十四年頃、山沢為造先生が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下されたそうです。

 一代より二代、二代より三代、そして末代に道を伝えることによって、悪いんねんの者でも、白いんねんになると言われます。お道の信仰を素直に一生懸命通らせて頂き、子や孫の代に少しでも住みやすい環境を作ってあげることも、大切な信仰者のつとめだと思います。
 自分だけが信仰しておればいいと言う考えは、信仰に対しての喜びがないのではないのでしょうか。喜びがあれば、周りがどうあれ、信仰を伝えようと努力するのではないでしょうか。
 私は今の環境(社会や組織など)に満足しているわけではありませんが、親神様が徳一杯の環境をお与え下さって、今を生かして下さっているのです。それを考えると、「ありがたい」と思わずにはおれません。そして、その「ありがたい」を子供に伝えることが、また子供が「ありがたい」と感じ、親と同じように、喜びを人様に、また子孫へ伝えてくれるような気がします。
 先ず私たち信仰者が、喜んで神様の御用をつとめさせていただくことが、大切ではないでしょうか。

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年9月号より

 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年10月号より

 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年11月号より

 

 

◎機関誌「しまとみ」、立教164年12月号より

 

 


   

 

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